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help リーダーに追加 RSS 過去に経験した「窮鼠猫を噛む」から思う事

<<   作成日時 : 2007/10/09 21:19   >>

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 私は基本的に争い事が嫌いなので、喧嘩も嫌いだし、ましてや相手が死にものぐるいになるまで追い詰めたりはしない(喧嘩も弱いので、追い詰められるとしたら私の方だ(笑))。但し議論をするのは好きで、何かを議論する時には首を突っ込む癖があった。

 議論というのは争い事とは違い、理の積み重ねによる結論への到達を目指すモノだと私は思っている。相手を負かす事が目的では無く、あるテーマに対する相互共通認識の出来る結論を求め合う事である筈だ。

 しかし何故か議論がそのまま争い事に繋がっていく人もいる。勝ちさえすればそれでいい、相手がいなくなるまで騒げばそれでいい、的な考えでもある。猫に追い詰められた鼠が、正々堂々と戦わず生き抜く事だけの為に戦っているようなものかもしれないと私は思ったりもする。まさに『窮鼠猫を噛む』だ。

 追い詰められると、どんなに弱い者でも死にものぐるいになって戦うから、到底敵わないと思われるような強い相手でも倒す事があるという事。
 猫に追い詰められれば、鼠も必死で猫に噛みつくの意から。
『新編 故事ことわざ辞典』より

 怖いのはこういう場合、大概その人は議論が出来ない人であるという事だ。議論というのは「自分の意見を相手に認めさせる事」を目的とする事では無い筈なのだが、自分の意見を認めさせたい、そうでない結論が出るのは自分を否定される……とでも思っているのでは無いかと思える程、自分の意見に固執する。こういう人相手に普通に議論を続けようとしてもおそらくは無駄なのだろう。

 そうは言っても、普通の議論ならばともかく、ネットの世界で議論が始まると、不特定多数の人が参加可能である為、既に戻れない状態になっている事も少なくない。まして争い状態になってしまっては、もうどうしようもない。

 最初は普通に議論をしているように見えるのに、途中から壊れていくように思えるのは何故なのだろうか? 理を積み重ねて、何らかの方向性を持って話をしようとしている中、自分の意見が理に適っていない事を指摘されて、理の世界から感情の世界に移動してしまったという事のように私は思える。しかもその場合当人は自分が理の世界にいて、周りの人間が不条理な事を言っているように思っているのだろう。

 これは既に議論における弱者なのだと私は思う。理に適っているいないというのは、言葉(文章)にする事が上手い下手という技術的な面もあるだろう。しかし、それは言葉足らずでも少しずつきちんと説明していけば、言わんとしている事は通じる筈だ。通じないとすれば、それは余程その人の言語感覚が無いか、聞く側の言語理解能力が無いかのどちらかだ。ここはまず意志の疎通を可能にしなくてはならないのだから、議論以前の問題だろう(但し、わざと相手の言葉足らずの所を突く意地悪い人もいるから、気をつけなければいけない)。

 さて、普通に言葉を話せるであろう人同士で争い事に発展してしまった場合、困るのは理から感情に走る事だ。それこそ普通に議論している事を考えれば、それは既にルール違反であり、議論の舞台から降りている事になるのだが、当人はその事に気付いていない事が多く、周りからすれば迷惑である。まともに議論が出来ない弱い者であると考えると、感情的になる前にきちんと意味を伝える必要があるだろう。

 但し、感情として思った事を言葉に纏め、それを伝えるという場面もあると思うので、全てが理である必要は無いと思っている。ただ、理を積み上げる場面で、最初は理による対話だった筈が、徐々に相手に対する感情的な言葉に変わっていくのを見ると、それは違うだろうと思う。

 過去(パソ通時代)に何回かあったが、議論だと思い参加したある場で、徐々に感情的になり、終いには単なる罵倒だけになってしまった人達がいた。事実を事実と認めず(もしくは隠し)、相手の性格や文章のあら探し等だけをするようになっては、話にならない。お陰でそういう争い事が起きた場は廃れてしまい、しばらくの間廃墟のようになったりした(中にはそれ以上に鈍感な連中が独りよがり的に勝ち誇っていたりしている事もあったが(苦笑))。

 ある意味、その場から到底勝てない相手がいなくなったのだから良いのかも知れないが、それをやってしまった人は自分がその手の連中であると天下に公表しているようなモノなのだが、おそらく生き抜く為に猫に噛みついていく鼠のように、がむしゃらになってしまっているのだろう。鼠と違って、命に関わる事でもあるまいに何をそんなにムキになって連中を晒しているのだろうと私などは呆れてしまったものだが、当人は追い詰められて必死になっているのだと思う。

 そうして暴れられてしまうと、誹謗中傷されてしまったこちら側も迷惑だ。何も知らない連中が如何にも知ったかぶりして、人の性格を悪く悪く言い出したら、その人のことを知らない人にとってはもしかしてこの人はそういう人なのかもと思うかも知れない。まして、表では表面的な事だけを言いながら、裏でこそこそ個人別に悪口を言いふらす(裏でメールを送りまくるとかね)ような連中もいる(やられた経験あり)。

 そういう出鱈目をやる事にまるで罪悪感が無いという事自体、弱い者であり罪でもあるのだが、そういう風に作られてしまったのだからしょうがないと言えばしょうがないのかもしれない。そしてそういう行為は、そうされた側にとって傷になるのだ(それであほらしくなり、その場から去ってしまう事も多々ある)。

 弱い者を苛めるものではないと私は思っているが、本来それは弱者を守らなくてはいけないという発想の元だった。しかしそういう経験を何回かしている内に、このことわざのように、あまり追い詰めると、何をしでかすか分からない、常識では考えられないような卑劣な事を平気でしかねない困った輩に、予想もしないような傷を受ける可能性がある、という気がしてきた。

 少し意味が違うが、似たようなことわざとして、兎も七日なぶれば噛みつくというのがある。どんなに弱い者でも苛めたり辱めたりするといつかは歯をむいて怒り出すという意味だ。この怒り出すというのは、普段は大人しい者ほどそうなった時に怖いらしい。普段は善良な人に見えていて、その実怒り出すと無茶苦茶する連中もいるという風にも読みとれ、面白い。勿論普段は善良ぶっている人に限って、怒り出すと無茶苦茶度がアップするという風に繋がるわけだ(実際は、そういう風には取らない(笑))。

 私はこの窮鼠猫を噛むということわざから、あまり弱い者を追い込むものではないという事を感じ取った。本来は追い詰められた人間が必死になって頑張って窮地を脱する(それだけの力を発揮する)という意味の方が一般的なのだろうが、私にとっては弱い者を追い込むものではないという意味の方を強く感じている。

 だからこそ、ある時期からの私は、いつも相手に逃げ道を残してそちらから逃がしてやるように心懸けていた。それが、追い詰められた弱い者から思わぬ痛手を被らずに済む無難な道であると思えるから。

 そして何れその弱い者が、自らの過ちに気付く時が来てくれれば、と温かい目(生温かくではない)で見守ってやれる程の度量を自分の中に持てるようになりたいとも思う。同時に自分がそういう鼠にならないように、理性と感情のバランスを保たなくてはならないとも思っている。最近、徐々に感情的な事を書いたりする事が増えており、着実にそちら側に近づいているような気がするので、尚更そう思う。

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 タイトルにある「窮鼠猫を噛む」に関する事。パソ通時代に色々な議論に首を突っ込んで、話している内に、相手がどんどん壊れていくのを見ながら思った事。議論とか話し合いは好きなんだけどね。相手を負かす事を目的にしてる議論って嫌だなぁという思いは、当時からある。 ...続きを見る
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